「心はどこにあるのか」という問いは、「人が死んだら、その心はどうなってしまうのか」と同じくらに古くからある問いである。英語では心を「ハート」というし、東洋でも「心」臓という。心は心臓にあるという考えは古今東西、かなり一般的であったし、他の内蔵、たとえば、肝にあるという考え方もかつては存在していた。それは、心がどこかで生命力に近いものとして理解されており、心臓や肝が生命を維持する器官として考えらてていたかららであろう。 現代人の多くは、心は脳に深く関与している、と考えている(このように聞いて当たり前だと思った方には、現在の日本でも意外にも多くの人が、心は心臓にあると考えていることを知っていただきたい。筆者が大学で心はどこにあかと問うと、マジョリティとはいえないまでも、相当の割合の学生が「心臓」と答えるのである。これは医学的知識の不足以外に理由があると思われる)。 そして、心の哲学や認知科学において近年興隆してきた「拡張した心」の概念を提案する。この考え方によれば、心は脳にあるのではなく、脳と身体とそれを取り巻く環境に実現するのである。 【『暴走する脳科学』より】 |
私も心は脳にあると思っています。この本ではこのあと、デカルト脳理論や古典的哲学の考え方、「心と身体は別である。」「心は存在するモノ(実体)ではない。心と呼ばれているものは、実は、顕在的・潜在的な行動パターンのことなのである。」「コンピュータに心はもてるか」「そもそも心は何か」そして「心脳同一説」。
さらに、「すなわち、心は、脳も含めた身体の内部器官のみならず、その全身の振る舞い、そして人間が作り出した造作物においえ実現していると考えるのである。心は、身体の内部のみならず外部環境を含めたトータルなシステムの中に成立しているのである。脳だけにあるのではない。」
上記に引用した本「暴走する脳科学」。今読んでいる途中です。
題名を見て、脳のことを科学的に検証していくものだと思っていました。
しかし、読み始めると、哲学の検証が始まりました。
科学や理論は哲学から離れる事ができないのでしょうね。
哲学は言葉がある限り存在します。
人の存在や自然の摂理を言葉で説明をしようとする学問ではないかと思います。
心を、言葉で表現することができるものなのでしょうか?
感情を言葉で表現できるでしょうか?
感情一つとってもそうだと思います。
怒っている。そのときは、本当に怒りの感情だけでしょうか?
ほかにも、深くには本人にも分からない情動というか気持ちが働いているのではないでしょうか?
また、運動をしないでる時と運動をしている時。
一日中に家にいる時、外に出て視覚的刺激を受けている時。
心にはどんな変化があるでしょう。
体験、外部からの刺激は、扁桃体や海馬などで過去の記憶や経験が記録され、
次に入ってきた刺激に好悪のタグ付けをするのでしょう。
それは、そのときの体調や、環境によってちがったタグがつけられます。
不快な環境にある時に見て不快な記憶を持ったものは、
違った環境で見ても不快な感情を引き起こさせることもあります。
そういったものが、積みかさなって繋がって「心」が築きあげられるのではないでしょうか。
それ以外にも先天的なものが影響する事もあるかもしれません。
脳の記憶は外部からの刺激により、思い出させられる事になるのでしょう。
そもそも、一番不思議なのは、
1.5kg足らずの重量の脳にどうしてこんなにもたくさんの情報が蓄える事ができるのでしょう。
デジタルの記憶メディアの進化は素晴らしいです。
15TBの情報を記憶することができるメディアが開発されようとしています。
15TBとはiPhoneの16GBの約1,000倍の記憶量です。
人が持っている記憶と身体を動かすプログラムが15TBだけで収まるでしょうか?
普通のハードディスクでしたら、大きなディスクスペースとファンをさくさんを備えないといけません。
1.5kgに収まるとは思えません。
さらに脳は省エネです。
その分人は物忘れをするのでしょうか。(笑)
これを思うと、心脳が別々に存在しているのではないかと思いたくなります。
脳は実物として存在しています。
では、心はどこにあるのでしょうか?
人の身体は不思議です。