二日お休みしてしまいました。
昨日は暖かかったです。
今日は一転して寒い朝ににありました。
街の木々はまだ、冬の装いです。
この写真の真ん中あたりにまだ枝だけの桜の木がに写っています。
春になると、いっぱいに桜が咲きます。
当然の事ながら、まだまだ先のようです。
春を告げる行事がもようされています。
昨日から、東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)が始まりました。
「お水取り」です。
「お水取り」がおわると、春が来ると言われています。
終わるのは、2週間ですので、3月14日ころです。
まだ少し春というには早そうな感じです。
元々「お水取り」は旧暦の2月1日から15日間行われるものです。
旧暦の2月1日にあたるのは、3月12日です。
3月12日から15日、3月27日です。
その間に春分があります。
その頃には、桜のつぼみもほころび始めるころなのでしょうね。
「お水取り」が終わると春がくると言われているゆえんでしょうね。
「お水取り」には、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式があります。
それで「お水取り」というのでしょう。
ニュースなどを見ても、「お水」なのに、「火」ばかりが目立っています。
「火」の祭典のようです。
28日に安倍総理の施政方針演説を読みました。
施政方針演説を読むのは初めてです。
今まで、あまり気にした事がありませんでした。
「おわりに」に書いてあった内容。
貝原 益軒の逸話を引用した話です。
野党に協力を求めるためのものです。
施政方針演説の文を引用します。
江戸時代の学者、貝原益軒は大切に育てていたボタンの花を折った若者にこう述べたと言う。「自分がボタンを植えたのは、楽しむためで、怒るためではない」
「何のため」に植えたのかという初心を忘れず、寛大な心を持つことができた益軒。 我々は「何のため」に国会議員を志したのか。政局に明け暮れたり、足の引っ張り合いを するためではなかったはず。初心を思い出し、建設的な議論を行っていただきたい。
「養生訓」をさらっとでも見て見ると、
益軒の言った事は、別の意味に見えてきます。
「「何のため」に植えたのかという初心を忘れず」という意味ではないように思えてきました。
「貝原益軒 養生訓」(伊藤友信 訳)に次のような文章がありました。
七情とは喜・怒・哀・楽・憂・愛・悪・欲のことである。・・・・七情のなかで、怒と欲との二つはもっとも徳を傷つけて生をそこなうものだ。怒りを制し欲を我慢するのは易経でも戒めとしている。怒りは陽に属し、火が燃えるようである。ひとの心を乱して元気をそこなうのは怒りである。だからこれをおさえて忍ばねばならない。欲は陰に属して水が深いようなものである。ひとの心を溺れさせ元気をへらすのは欲である。心して防がなけらばならない。
怒らないのは、健康で長寿で生きる為ということのように思えます。
さらに
すべての悪は欲望を思うままにすることから起こるのである。耳、目、口、体の欲をこらえて、これを抑制することが欲に勝つ道である。さまざまな善は、みな欲をこらえて好きかってにしないことから生ずるといえる。だから、忍ぶことと、恣にすることをは、善と悪との起こる本(根本)となるのである。
心は身体の主人である。だから平静をたもたなければならない。身体は心の下僕のようなものであるから、大いに労働させるべきである
ボタンを植えたのは、目を楽しませる為ではなく、労働をするために植えたのではないかと思えます。
「養生訓」を全て読んで理解したわけではありませんが、
この部分を読んでみると、逸話の引用としては、使い方が少し違うように感じます。
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別に安倍総理の、施政方針演説にケチをつけるつもりではないのですが、
安倍総理の演説の貝原益軒の逸話の引用に興味を持ちました。
そして、図書館で、貝原益軒の本を借りて、少し目を通して、このように感じました。
本当は、28日にこの施政方針演説のことを書くつもりでした。
完成する事ができず、本日になりました。
益軒の「養生訓」を見て見ると、
怒りと欲は健康によくないのだと感じます。
寡欲(忍ぶこと)であれば、いろいろな悩みから解放されるのでしょうね。
しかし人に欲があります。
マズローは、人間の欲望を5つの段階に分類しています。
①生理的欲求
②安全の欲求
③所属と愛の欲求
④承認(尊重)の欲求
⑤自己実現の欲求
①が満たされると②そして③④⑤へと人の欲望は上がっていきます。
人の欲は際限がなさそうですね。
その欲を満たすために、
色々と悩みを抱え込んでしまうのでしょう。
それが、欲がストレスになって、怒りになり、体を蝕んでいくのかもしれません。
寡欲(忍ぶこと)を肝に銘じて、健康に暮らしたいものです。