いまこのときが大切

日々気になったこと、興味を持ったことを綴っています。

「草原の風」を読んで ~「常識は大いなる虚(きょ)だ。その虚(きょ)をつけば活路が広がる。」~

歴史小説は、面白い。

一度読みだすと、引き込まれるように読んでしまいます。

 

久々にAmazonで宮城谷氏の小説を買ってスマホで読みました。

後漢の初代皇帝である「光武帝」を題材にした「草原の風」です。
今まであまり興味をもったことのない時代の小説です。
この時代の「後漢書」の「光武帝紀」の中元二年(紀元57年)に
東夷の倭の奴国王、使を遣わして奉献す。」と日本関する記述があります。
日本が中国の歴史に登場し始めたころです。

 

 

前漢の王朝が王莽に簒奪され漢王朝は滅び、「新」という王朝になった頃です。

大きな戦があったのでなく、宮廷内でおこった政変のようなものです。
王莽が皇帝を追い出して盗ったようなものです。

更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。折しも、哀章という人物が高祖の預言という触れ込みの「金匱図」「金策書」なる符命を偽作し、これを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪に相当する。太皇太后として伝国璽を預かっていた孝元皇太后王政君は、玉璽の受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒し、それでも玉璽の受領を迫られると玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放ったと史書に伝えられている。
ウィキペディア「王莽」より)

国の骨組みは「漢」の時代のまま。
しかし、王莽の政治はよくありませんでした。失政の繰り返しだったようです。

王莽は、「漢」王朝に関わることはすべて取り払おうと制度を変更しました。

 その中には、漢王朝の末裔である「劉」姓の人々から「漢」の時代に与えられていた特権をはく奪され平民に落としるようなことをしたり、通貨の「金」は「劉」の文字に「金」「刀」が含まれるということで、「漢」の通貨廃止し、泉貨やを布などつかった貨布に強引変更したり、身内に罪人がでると身内全体がその罪にとわれる連座制をとる、さらには重税と、人民の気持ちからはなれた政治をしました。

そうするうちに、王莽に対する反感が高まり、各地で反乱が起こりだします。

もともと「漢」という国が瓦解したわけではありません。

「漢」の復活を願い声も多く、各地で「劉」姓の漢の皇帝の末裔が王として祭り上げて、各地で王が乱立するようになります。

のちの「光武帝」こと劉秀も、兄が王莽を倒すために軍を起こすことになり、止む終えずその軍に参加することになります。

現実性に欠如した各種政策は短期間で破綻、貨幣の流通や経済活動も停止したため民衆の生活は漢末以上に困窮した。また匈奴高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、華夷思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名しようとしたことから周辺民族の叛乱を招き、それを討伐しようとしたが失敗。さらには専売制の強化なども失敗、新は財政も困窮した。 生活の立ち行かなくなった農民の反乱(赤眉の乱)が続発。王莽が南陽郡で擁立された劉玄(更始帝)を倒そうと送った100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られ、これで各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という者に殺された。68歳。これにより新は1代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によってばらばらに分断されたという。(ウィキペディア「王莽」より)

 

劉秀の兄は首謀者一人でした。
軍をおこしてから短期間で組織が巨大化し、ある程度勢力が大きくなった時、劉秀の兄は王になることを勧められますが、時期尚早と王になることを拒みます。

組織が大きくなると実力者といえトップでない以上、王を立てることを止めることができず、別の「劉」姓の劉玄が王に祭り上げられてしまいます。「更始帝」。

劉秀の兄は、それを認めたくなく、それが仇となり不敬と言う罪で殺されてしまいます。

それを知った遠征に行っていた劉秀は、急ぎ戻ろうとします。

劉秀の兄弟は軍の中でも功績が多く、王の取り巻きの中では煙たく思われていたようです。

それもあって、部下は、戻れば殺されるかもしれないので戻ることをやめるように言います。

著者は、劉秀を「奇瑞にめぐまれない、どこにいそうな、勤勉で、ちょっとはにかみ屋の青年」(あとがき)という印象をだったよで、「劉邦」のような強い個性はもっていなかったようです。
しかし、この小説では、常人でできないようことを行います。
例えば、
100万という王莽の軍を数千の兵で打ち負かすなど、信じられないような功績がありました。
劉秀の評判はとても高くなっていました。。

しかし、普通なら命の危機を感じ、戻らず遠征地にとどまります。
もし、劉秀が戻らないと不満分子が劉秀の元に集まり、せっかく進んできた軍に混乱をきたす可能性があると判断もあってか、戻ります。
兄が殺された劉秀としては、悔しく復習したい気持があったかと思います。
反対に言えば、「劉秀」は危険な立場に立たされたということでもあります。
兄の次は自分だという思いもあったと思います。事実、この機会に「劉秀」も殺してしまおうと「更始帝」の周りは考えていました。


また、劉秀は自分が殺されると、今まで自分についてきた人たちを路頭に迷わすことになるかもしれず。自分一人の恨みよりそれを抑えて、人のために生きること選択したのでしょう。
この危機を抜け出すために、劉秀は戻ることにします。

その時、劉秀は言います。

常識は大いなる虚だ。その虚をつけば活路が広がる。


戻った劉秀を見た、「更始帝」やその周囲驚きます。「更始帝」やその取り巻きに兄の「不敬」を謝罪したことなどの劉秀の様子を見て、殺害することをとどまります。その劉秀は、しばらく謹慎生活をおくります。

劉秀の素早い判断が自らを救うことになりました。
ひいては多くの人を救ったことになると思います。

 

この小説では、劉秀は前述のような、常識にはとらわれない行動を取ることで、多くの危機をまぬがれるシーンがたくさん描かれています。
劉秀には、人とは違ったいまいうオーラがあったのでしょう。出あう人全てから一目を置かれる存在になってくように描かれています。

劉秀は歴史を学びそこから得たものを自分なりに消化し、戦乱を終わらせるという思いの元に行動した結果の行動だったのはないかと思います。

古代の聖王の政治をまねていまの民を治めようとするのは、切り株を守って兎が死んでくれるのを待っている農人と同様である。

 「草原の風 あとがき」より

この農人の話については、次のように書かれています。

毎日田に出て耕作をする者がいた。田のなかに木の切り株があった。たまたま兎が走ってきて、その切り株にあたり、頚を折って死んだ。それを見た農人は、
「田を耕してもほとんど利を得られないのに、切り株を守っていれば、兎がそれにあたって死んでくれる。耕作なんぞ、やめた」とすきを捨てて、切り株を守ることにした。ところがそれ以来、その切り株にあたって死んだ兎はいなかった。そのためその農人は国じゅうの笑いものになった。
これは、たとえであり、要するに、
今、先王の政を以て当世の民を治めんする欲するは、みな株を守るの類なり。
「草原の風 あとがき」より

一度上手いこと言ったからと言って、次にもうまいこといくとは限らないということでしょう。
「柳の下にいつも泥鰌はいない」

歴史は先人の経験を教えてくれます。しかし、先人の真似をするだけでは、十分ではありません。先人の行いを読みとって、その時にあった判断と行動をすることが大切だということでしょう。

誰にでもできるものではないかもしれません。ただ、何のためかのポイントを変えることで、劉秀のような判断と行動が可能かもしれません。
劉秀も常に最善の行動を選択したわけではありません。
それでも後漢の皇帝になりえたのは、
常識にとらわれず、時機を見て、自分の為だけではなく、人のことも考えた行動を選択したからかもしれません。

あとがきに

 劉秀自身も、選択して決断しなければならいときがしばしばあり、それがつにに最善の選択と決断であったとはおもわれないのに、結果が良好となったのは、なぜであるのか。
 歴史には、かならず。
「なぜ」
があり、その大小のなぜを考えるだけでも、人は豊かさを得られる。
「草原の風 あとがき」より



 

草原の風(上) (中公文庫)

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