平安京の大きさは東西4.5km、南北5.2km。
約23K㎡だ。東京都の千代田区11.64K㎡と中央区10.18K㎡を合わせた広さより大きい。
日本の中枢機能があつまる皇居から永田町・霞が関を中心としする地域あたりの広さぐらいある。
↓緑の四角が想定されている平安京の範囲
当時としては大きな公共事業だったと思う。
多くの木材やなど材料が必要だ。
そして、多くの人がかりだされたはずだ。
そられらの人を使うには、食料、寝床などある程度の準備は実用だったろう。
当時の国の支配者の一声で、多くの材料が安く調達いできたかもしれない。
ひょっとして無償で手に入ったかもしれない。
しかし、人件費だけはただでとはいかない。
安かっただろうと思うが、無償というわけにはいかない。
人は寝て食べないと生きていけない。
ある程度労働環境を整わないと、まともに働けなかったと思う。
それほどの公共事業を。立て続けにするには財政が追いつかなかったのではないかと思う。
784年に平城京から長岡京に遷都して、そして10年後の794年に平安京に遷都。
10年という期間で2度遷都すると相当の負担だ。
日本はいまだ、1990年台のバブル崩壊の影響を26年たっても解消できていない。
当時世界第二位の経済力をもていた財力にして一度の大きな財政出動がそうそう解消できない。
当然平安京を造成するにあたり、財政問題に突き当たってくる。
その一つが平安京の南の入り口、羅城門の東西に建つ「東寺」と「西寺」の造営だ。
嵯峨天皇の時に財政問題でどうも造営が進まなくなったようだった。
そこで、「東寺」を空海に「西寺」を守敏(しゅびん)に下賜された。
しかし、「西寺」は跡形もなく、今は公園になっている。
東寺は何度も焼失したりして再興されている。
この差は、国から庇護を受けているかどうかだったのだろう。
この東寺と西寺の扱われ方の差に関する逸話で登場するのが「神泉苑」。
両寺の運命を分けた所かもしれない。
現在は、二条城の南ひっそりとある。
訪れるひともまばら。
平安京が造営されたときは、大内裏の南東に広がっていた沼池を整備して天皇御遊する大庭園だった。
苑内に池があり池からは常に清泉が湧き出ていたことから、神泉苑と名付けられたようだ。
俗に「御池」とも呼ばれていた。
この「御池」が、現在、京の東西の目抜き通り「御池通」の呼称の由来にしていることからも、この「神泉苑」の存在感はわかる。
「東寺」「西寺」に運命を分けた逸話は、淳和天皇の頃に大旱魃が起き、「雨乞い」を弘法大師と西寺の守敏に依頼したことに始まる。
平安京の存亡にも関わるような旱魃だったようだった。
東寺や西寺を下賜されるほどの名僧二人が朝廷に選ばれたのだろう。
「雨乞い」を行う場所に選ばれたのは、決して枯れることがない、龍神が棲むと信じられている池がある「神泉苑」だった。
まず、先輩の守敏が雨乞いした。しかし、効果がなく。
次に弘法大師がおこなった。
すると、待望の雨が降った。
結果、が雨を降らせることができたと弘法大師の勝ちとなり。
弘法大師は、朝廷から帰依されるようになり東寺は真言密教の根本道場として発展してった。
一方西寺は庇護は受けられず。次第に寂れていった。
そして、人々の記憶から消えていった。
「東寺」「西寺」の運命を分けた「神泉苑」も安泰であったわけではない。
かつての「神泉苑」は広く。
多くの敷地が、二条城に含まれてしまった。
神泉苑円は南北400m東西200mほどの広さだった。
↓現在の「神泉苑」。押小路通「平安跡神泉苑 東端」の碑近くから。東西50mあるかどうか。
二条城の南を通る押小路通りの北側の歩道に、
「神泉苑」東端の碑が建っていた
「神泉苑」もいずれは、西寺のように、公園になってしまわなければいいのだが。
存続のためなのか?
下鴨神社をはじめ、今の京都の神社仏閣の多くが生き延びるには、身を切らないといけないのかもしれないのかも。
ここには他にも逸話がある。
雨乞いの儀式のときに源義経が舞を奉納していた静御前を見染めたという逸話もある。
京都の街は歴史に関するいろいろな逸話があって面白い。
これらの名所がこれからどれだけ残るのだろう。
逸話だけが残るなんてことがないことを願う。