いまこのときが大切

日々気になったこと、興味を持ったことを綴っています。

鬼灯の冷徹 第弐期 日本人の宗教観

鬼灯の冷徹 第弐期

「日本の地獄は自慢の地獄♪
罪にあわせておもてなし♪
日本の地獄はじゅうろくしょう地獄♪
全部合わせて、ひゃくななじゅうにもある♪
ここは地獄!地獄!、素敵な地獄!♪
♪♪♪ ・」
という如何にも耳障りの悪い言葉が並ぶ歌だ。
一度のこ歌をカラオケスナックで歌ったことがある。少々ヒンシュク気味だった。途中でやめた。
この歌を主題歌にしていたアニメが「鬼灯の冷徹」。昨日からこのアニメの第2期が放映されている。出張で見逃した。家では録画していると思うので、家で見る。当然、主題歌は変わっているが、先に紹介したに似たような感じ。
地獄の話かと思うが、話の内容は現世と同じ。ただ設定が地獄で地獄の要素を加えたような感じ。しかし、観ているとと面白く、笑えてくる。楽しいアニメだ。
gyaoで何度も見ている。

このアニメで描かれてる閻魔大王はくまさんのようにヒゲモジャで優しそう。そして、主人公の鬼灯は、切れ目の美男風で一見冷たそうな雰囲気を持つ鬼神で閻魔大王の補佐官。自分では「官房長官ようなものと」と言っている。閻魔大王は亡者の裁判すると同時に、地獄を管理している。鬼灯はくまさんのような閻魔大王をしばきながらも閻魔大王の管理を補佐している。地獄の鬼たちからの信頼も厚い。
このアニメの地獄は現生と似て、人手不足(獄卒不足)、予算不足の問題を抱えていたりする。新人(獄卒)教育もあたったり。地獄にも政令指定地獄などとうのもあったりする。また、国際問題もある。ユーロ地獄と平和条約を結んだりもしている。現世と変わらない。

 設定が地獄にして、現世人間を描いたようなオモシロイ話である。


そんな中でも、少し地獄のことを教えてくるようなこともある。 


TVアニメ『鬼灯の冷徹』第弐期オープニング映像

 

   

 

日本的宗教観 

第1話を見た。

通常、シーズン2と回を重ねるうちに、シーズン1で感じたような面白さが徐々に色あせていく。まだ、シーズン2(第弐期)であるから、そこまで色あせはないかと思う。が、第1話は、充分に面白かった。古事記イザナギイザナミの話も出てきた。地獄ができる前、黄泉の国の話から、神道仏教をなど色々なものを絡めた話造りがされていた。日本人の宗教観たっぷりだなアニメだと思う。

仏教は、インドで生まれたが、中国を経由して日本で浸透するうちに、インド仏教と日本仏教は違うものになったように思う。中国と日本と伝わっていくうちに、それぞれのにあったものになるように味が付け加えられていった。宗教が広がるには、その国の人々や当時の支配者の要求にも影響される。熱帯のインドと温帯のおだやかで、海に囲まれた日本とでは人々の要求も違ったものだったろう。それに、日本にはすでに神道八百万の神がいた。仏教神道は融合したり上になったり下になったりで、日本の宗教観が作られていったのだろう。

しかし、仏教神道などのこを考えるととき、子供のころ夏になると母方の実家に行っていた。お盆になると祖母の横で祖母た唱える般若心経をまねて唱え、そのあとは近くの川にお盆にそなえた供物や牛にみたてたなすびなどを流しに行った時の様子が頭の中によみがえってくる。仏教というのは大げさだが、先祖供養で供物をそなえたり、墓参りなどすることは大切なことと、欠かさずにいってる。これが自分の仏教観かもしれない。

先祖供養の習慣は中インド仏教にはなかったようだ。亡くなった人は49日、一回忌、三回忌で十王の審判を経て(多くは49日)、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人道、天道)に転生しているという仏教の考えに矛盾しているように思える。

「あえて名づけるなら『日本型仏教』と言うべきものへと収斂してきたように思われる。戒律を重視せず、在家を中心として祖霊崇拝などの土着崇拝を多分に取り入れた宗教形態である。インドやチベット仏教のようには、論理や認識論を重視することなく、世界の構造に関する知の体系を構築しようともしない形態。」(「最澄空海 日本仏教思想の誕生」)

実に日本らしい形態だと思う。日本らしい宗教観はにじみやすく、ここちがよい。

 仏教神道はその歴史的足跡を日本中に多くのこしている。そこを訪れると凛としたした雰囲気を味わうことが今でもできる。とくに京都に多く集まっている。なぜか京都にいくと心が落ち着く。