早いもので、2017年ももう終わる。
そして2018年が始まり、
気がつけば2018年も終わる。
毎年、同じように過ぎっているような気がする。
この歳になると、クリスマスも正月も通りすぎていく。
子供の時は待ち遠しく楽しかった。
すぐ通り過ぎ、その後のせきりょう感は嫌だった。
そんなことを繰り返していると、
楽しいことも、それはいつか終わる。
その後には何がくるか?
いいことがあった後は、何がくる。
これは平家物語にある通り。
どんな人にもある。自分にもある。
そんな経験を繰り返していると、いいことがあると、いつ落ちるんだろうと「不安」になってしまう。
よくないことがあると、いつかよくなるかもしれないと、ちょっと「希望」と言うか「頑張ろう。耐えよう」という気持ちになる。
実際に良くなるかどうかは保証がないけど。
ただこうなると、楽しいことも楽しめなくなる。
「実ほど首を垂れる稲穂かな」という言葉が浮かんでくる。
実際によく実った稲穂は垂れている。
実(豊かなになるなど)と自然と謙虚になるという意味にとらえていた。
それがさらに、解釈が進むと、以下のようにな解釈もある。
人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物ほど尊大に振る舞うものだということ。
実ときもいつ終わるかわかならい。
始まれば、いつか終わりがくる。
「陰極まれば陽に転じ 陽極まれば陰に転ず」にも通じる。
こう言った波を和らげるには、踊らず、舞い上がらず、謙虚になることが大切かと思う。
夏目漱石の「草枕」の最初のほうにある文章がうまく言っているように思う。
草枕といえば「智に働けば・・」が有名だ。
世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世としった。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思っている。ーーーー喜びの深きと憂いよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろう。閣僚の方は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。・・・・・(「草枕」より)
この文章のあとに、主人公は石をふみはずして尻餅をついてしまう。
今年も、いろいろと波の多い年だった。
来年は少し凪ぐだろうか?
豊国神社唐門と戌年絵馬