「忙しい」は「心」「亡くす」と書きます。
忙しくなると、細かいことにかまっていられなくなって、
心ない言動してしまうことがあります。
江戸時代では、「心こそが人間として最も大事な宝ととらえ、忙しさは「心」を「亡」くすこと、心をなくしたら人間ではないただのでくの坊になってしまうと考えました。
忙しいときは、「いま書き入れ時で」「ご多用なところをようこそ」など言い換えたようです。」
(「暮らしうるおう江戸のしぐさ」参照)
また、この本にあったのですが、この本の著者に届いた手紙の文面にやたら「忙しい」という文字があったようです。
読んでいると「忙」が「虻」という字に見えてきて、
それから著者も「忙しい」という言葉を使うのがいやになったようです。(笑)
これが今に通用するかというと、わかりません。
ただ、
最近は、やたらと忙しいという言葉が使われます。
「『忙しいか?』と聞かれたら忙しくても、『忙しい』と言わない方がいい」ということを
私が、社会人になったとき、教えられました。本で読んだのか、上司に教えてもらったのか忘れました。
なぜなら、「忙しい」と言った時点で、その人の能力の限界を見透かされてしまうからだそうです。
江戸の人とはちがった考え方です。
私もその言葉を守って、「忙しい」という言葉を使わないようにしました。
「忙しいか?」と聞かれたら「いいえ」と答えるようにしています。
確かに仕事が詰まってくると「忙しい」と言いたくなります。
そこを一踏ん張りして、なんとか仕事なりをやり遂げる。
このバタバタしているときが、仕事なりを覚えているときであり、成長している時だと思います。
そのうち、限界に近づきます。
成し遂げるために何をどうすればいいか、悩んで考える。
そこで、音を上げて投げ出すか、それを越えるかで大きく違います。
音を上げず仕事なりをやり遂げた人が、プロになれるのではないかなと思います。
このことも、随分昔に上司から教えられました。
限界を超えることで、能力やコツが身に付くだと、
そのとき上司は「閾値(いきち)」という言葉を使っていました。
「閾値(いきち)」を越えると、例えしばらく時間があいても、感覚がすぐ蘇ってくるそうです。
昔、内閣総理大臣をしていた「宮沢喜一」氏も、かつては講和条約締結の為に吉田総理の元、池田隼人(のち総理大臣)の通訳としてアメリカに渡ったことあるほど、英語が堪能でした。
そして、年が流れて、総理大臣になったあと、宮沢喜一が「英語」のことでインタビューを受けた時に、長く英語を使っていないので日本では英語を話せないけど英語を話す国に行くと自然と英語がでてくると答えておられたのを覚えています。
通訳するぐらいですので、英語は相当勉強されたのでしょう。
また、日本の将来を左右する講和条約の締結という重い任務の通訳をするのですから、苦労されたと思います。
いわゆる「閾値(いきち)」を越えて「英語」を身につけられたのでしょう。
「忙しい」という言葉は、口にすることで、その人の能力の成長を止めてしまうかなと感じます。
口にすることで、その言葉を意識の中で確認してしまうのだと思います。
「自分は忙しいから・・・」という言い訳にも繋がるのでしょう。
そうなると「限界」を越えることができなくなってしまいます。
各界で成功した人は「忙しい」という言葉を使っていたのでしょうか?
実際にあったことないのでわかりません。
たぶん使っていなかったのではないかと思います。