今週のお題「紅葉」
日曜日、人混みの東福寺を出て、
京阪「東福寺」の駅についたのは、朝の10時半ごろでした。
まだ時間があるので、東山の方まで行けるなと思い、
最初は、清水寺も見てみようと思っていました。
「清水五条」駅で降りて、
改札の前にある案内地図を見ていると
まだ行ったことがない「三十三間堂」が七条まで下がればあるのに気が付きました。
清水も混んでいるだろうから「三十三間堂」に行くことに。
「三十三間堂」は紅葉の名所ではありませんが、少し紅葉がありました。
きれいに色づいていました。
紅葉の名所ではないので、さすがに人は少なかったです。
人も少なく、
境内は広々していて、
のんびりと見て回れました。
今まで何度も京都に行きましたが、
「三十三間堂」の他にもまだまだ行っていないところがたくさんあります。
「清水寺」など決まった所しか行かないからでしょう。
それに、もともと京都は見て回る所がたくさんあります。
三十三間堂
「三十三間堂」の本堂は南北に長い建物です。
地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルあります。
南北に長い建物です。
東面
南面
西面
↓ここで 南北に長く続く廊下で「通し矢」という神事も行われます。
建物が長くて、全体を撮るのがが非常に難しかったです。
「三十三間堂」は正式名は、蓮華王院と言います。
その本堂が「三十三間堂」と呼ばれています。
本堂の長い東面には柱間が33あることから言われているようです。
さらに、
このよう、「三十三間堂」の御本尊は千手観音です。
本尊は千手観音である。堂内中央にこの丈六坐像の本尊をまつり、左右の内陣にはそれぞれ十段の階段に50体ずつの千手観音立像、計千体が並ぶ。(ウィキペディア)
上の写真の本堂の中に、観音様がずらっと並んでいました。壮観でした。
堂内は撮影禁止です。写真はありません。
本堂の中で、ご本尊の観音様は東向きにずらっと並んでおられました。中央に国宝の高さ3.4メートルの中尊千手観音坐像がありました。
西側の通路には、三十三間堂を紹介するパネルが展示されていました。その中で興味をもったのは、本堂の構造についてのパネルでした。
この建物は、
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。(ウィキペディアより)
免震対策(版築)
再建されてから750年経ちます。同じ時代に建てられた大きな建物は平安時代に他もあったようですが、地震や火事で長持ちしなかったようです。
「三十三間堂」の再建の時、そのような事情も踏まえて工夫されて再建のされたようです。
構造もさることながら、基礎の作り方が興味深いです。
版築という方法で基礎を地震のを吸収するように工夫されています。
今で言う「免震工法」です。
ただ、調べてみると日本でこの工法は廃れしまったようです。
展示されているパネルでは、
その様子をイラストで紹介されていて、わかりやすかったです。
版築とは三十三間堂のホームページに説明がありました。
基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する版築(はんちく〉を用い
こんなに昔から免震対策がなされた建物があったのには驚きでした。
なぜ、日本では廃れしまったのでしょうね。
この工法が普及し、進化していると、地震の被害も多少は少なくてすんだかもしれません。
千手観音の「千手」について。
最後に蛇足ですが、
千手観音の「千手」について。
「千手」というは、本当に手が1,000本あるものあるようですが、ほとんどの場合は、42本の手で代用しているようです。
42本の手の内合掌している手2本を除く40本が、25本の手の代表としているということのようです。
40本×25本=1,000本です。
それまで、「千手」の意味について深く追求したことがなかったので、
気にしていませんでしたが、昨年東福寺の近くの法性寺に行ったときに、教えてもらいました。
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