歴史は誰のためにあるのだろうか?
かつて歴史は時の王朝により作られていた。
歴史は、王朝の都合の用意用に書き換えられた。
王朝が変わるたびに歴史は変わる。
こうして変わる歴史を記した歴史書を「正史」という。
正史(特に後述する「断代史」の形式をとる正史)は、その名から「正しい歴史」の略と考えられることがあるが、実際には事実と異なることも記載されている。理由は、正史とは一つの王朝が滅びた後、次代の王朝に仕える人々が著すためである。現在進行形の王朝は自らに都合のいい事を書くから信用できない、という考え方からこのような方法が取られたわけだが、このせいで最後の君主が実際以上に悪く書かれる傾向にある、といった弊害もある。また正史をまとめるに当たり、前王朝の史官が残した記録も参考にするので、その時点で既に前王朝にとって都合の悪い所が消されていたり、粉飾されていたりする場合もあり得る。 以上のことから正史とはあくまで「王朝が正当と認めた歴史書」という程の意味であり、信頼性の高い史料であるとは言えるが、歴史事実を引き出すには歴史学の手法にのっとり厳密な史料批判を経て行う必要があることに変わりはない。ウィキペディア「正史」より
日本では日本書紀や続日本紀、 日本後紀 、続日本後紀、 日本文徳天皇実録 、日本三代実録 、新国史(続三代実録)などがあるようだ。
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。
ウィキペディア「正史」より
日本は天皇制が続いたため、歴史書の大きな書き換えなどはなかったと思う。
中国では王朝の入れ替わりが激しかったので、このような正史の書き換えは頻繁に行われただろう。
これは今の王朝や政権の正当性をアピールし、民衆に認知させるためのに利用されるのだろう。
王朝や政権の根本にかかわることだ。
その歴史をかえることができるのは、その歴史をつくった王朝なり政権が変わらないと変わらないだろう。
国が違えば国の支配者の利益目標が違うように、歴史も違う。
国が違えば歴史がちがうのは当然だと思う。
国がちがっても起きた事実は一つ。
時代がさがればさがるほどはっきりと起きた事実は把握しやすい。
しかし、不都合な事実はでてこないことがある。
そうでなくても見過ごされることもある。
出てきても正式でないので認められないので、事実かどうかということになる。
そして、鰓られた出来事の原因と状況の把握、結果などについての解釈が国の思いにそったようになされる。
それぞれの国で選ばれた事実を国の思いに合った解釈でなされた歴史が、それぞれの国の学校で教えている歴史。
子供たちは、王朝や政権が変わらないかぎりその歴史と一緒に成長することになる。
そんな与えられた歴史は面白くない。
歴史は、いろいろな解釈ができるから面白い。
本能寺変にしてもテレビや書籍でいろいろな解釈が広げられている。
しかし、事実は誰もわからないだろう。
今の史料や資料での事実は、一般的に言われていることだが、
今後さらに史料がでてくればかわるかもしれない。
教科書でよく見た聖徳太子や足利尊氏の肖像画が本人のものではないということを聞く。
日本では、
学校以外でも色々な歴史の解釈に出会える。
容易に接することができるのが小説や歴史本だ。
そもそも一般の人が接するような歴史は、史料などを国や専門家や小説家のフィルターを通されたものだ。
いろいろな時代の中で生きた人の生きざまを専門家や小説家というフィルターを通じであっても、その人の考えでリメイクされた歴史上の人物の生きざまが重なって頭の中にはいってくる。
筆者の考察をもって多くの史料をまとめて読みやすくしてくる。
これが歴史か?というとちがうかもしれないが、
歴史への入り口で、小説や歴史本を読むことで歴史に対する想像力が膨らむ。
そこから徐々に難しい史料に向かう動機づけになることもある。
歴史に親しむことで、人間の機微というものを感じ取ることができるようになることができるようになるのかと思う。
今、「日本人だけが、知らないほんとうは知らない『本当の世界史』」を読んでいる。
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久々の世界史の本だ。
興味深いことが書いてある。
これはこの人の見方なんだろうと思うが、とても面白い。
歴史は、事実と史料と解釈して文章にすると人とそのほかの専門家とのせめぎあいがあるだろう。
だから面白い。