四神相応
洛北に船岡山がある。
平安京には中国の風水思想が取り入れられている。
京都盆地は「四神相応」、すなわち四方を守護する四神「聖獣」の存在にふさわしい地相とされたようだ。
「船岡山」には北の聖獣「玄武」が棲むとされ。
東には「青龍」が棲むとされる「鴨川」があり、
南には「朱雀」が棲むされた「巨椋池」があった。
そして西には「白虎」棲むとされる「大道の山陰道」あるとされた。
これが、この地が、都として選ばれる要因だったようだ。
結果、長く都として栄え、未だに観光地として栄えている。
やはり、良いところなのだろう。
この街がパワースポットかもしれない。
今は、
東の清流の鴨川は今も清流をたくわえている。
白虎の西側の大道は、高速道路がどんどん整備されている。
しかし、南の朱雀が棲むとされた「巨椋池」は埋め立てられ今は跡形もない。
北の船岡山はどうなっているのか?
一度見に行きたいと思っていた。
京の七野
「大徳寺」周辺は、「紫野」とついた地名がある。
「紫野」とは、「京の七野」の一つ。
貴族らが狩をするなど、平安京の北にある野原のこと。
「洛北七野」とも呼ばれ、「紫野」以外には、「上野」「内野」「蓮台野」「点野」「北野」「平野」がある。
「大徳寺」周辺は「紫野」という地名だけが残ったようだが、
他にも「点野」「上野」「蓮台野」などもあったようだ。
少し西に行くと、北野天満宮のあたりが「北野」
その北に「平野神社」があって、その辺りが、「平野」。
「平野神社」は桜の名所。今年はいかなかったが、来年行ってみようと思う。
あと一つ「内野」は大内裏のあったあたり。
「紫野」では、かつて「疫病」が流行ると「御霊会」が営まれ、「今宮祭」として朝庭により官祭として執り行われるようになったようだ。
その後、民間で行われるようになった。
大徳寺の北西にある「今宮神社」で行われているようだ。
今宮神社
北大路から大徳寺に行こうと歩いていると、今宮神社に行き着いた。
行き過ぎた。
前を通ると金色の神輿が目に止まった。
一瞬「玉の輿」という言葉頭に浮かんだ。
まさに、この「今宮神社」は別名「玉の輿神社」とも呼ばれているようだ。
この日5月5日はちょうど、「神幸祭」が行われていた。
今宮神社は、先述の通り、疫病よけに関係する。
昔は、桜の花が散るころには「疫病」が流行ることがよくあったようで、
4月から5月にかけて、「疫病」除けのための祭が、執り行われるようだ。
また、「玉の輿」のイメージ通り、「縁結び」の神様でもあるようだ。
八乙女舞というのもあるようで、
小学校低学年かと思われる女の子が、白粉で化粧をしてもらい、正装して、大人に和傘をさしてもらって、行列していた。
あとで、舞を舞うのだろう。
神輿が近隣の街の中を巡行するようで、その曳き手の人や、装飾のやりを持っている人など、そして観光客など。
この日は、今宮神社はおおにぎわい。
神社の参道の両側に古い木造の造りの「あぶり餅」の店がが向かい合ってある。
店の前には、神輿が巡幸をいまおそしと鎮座している。
店は満員で待ちの行列ができていた。
神輿を見ながら、「あぶり餅」を食べていた。
「あぶり餅」きなこ餅をあぶって、味噌だれをつけて食べるようだ。
巡幸の時間が近くなると、神輿の周りに人が集まり、ハッピを着た人たちが、「エイヨット」神輿を担いて、神輿を上下に降って、神輿についている鈴を何度か鳴らした。
いざ街中に出御。
神輿は担がれたあと、少し進んで、台車に乗せられた。
ツナに曳かれ街中に。
公道を通るので、結果、ちょっと神輿渋滞が起きた。
今宮神社の南西少し行ったところに船岡山がある。
一度鳥居をくぐって見たが、長い階段があリ、船岡山山頂に行けるのかわからないので、他の道を探した。
スマホのナビを見ながら歩いていると、上り口が見つかった。
しかし、そこには、長い階段があった。
意を決して、登った。
上がりきったところに、船岡山と書かれた石碑があった。
石碑の横にあるさらに上に続く階段があった。
これを上がると、「建勲神社」。
山と言われる頂上近くにあるので、見晴らしが良かった。
お参りしておる間にも、人の少ない凛とした雰囲気の中にも、
今宮神社の神輿の巡幸の一団の声だろうか遠くに聞こえてきた。
後ろに見えるのは、大文字山かもしれない。
お参りして、
きた階段を降りて、元あった石碑に戻った。
そこから、
ピクニック感のある道を歩いて、山頂へ。
山頂には、「三等三角点」があった。
これが、山頂かな。
見晴らしはというと、周りの木々が目線より高く、あまり見えない。
石のベンチに「ごめんなさい!」と上がって、手を思い切り伸ばして、パノラマで、一枚。
あと、スタスタと降りて、烏丸今出川 でウォーキング。
皐月という、気候の良い時期、これを逃してはと、京の街の散歩。