いまこのときが大切

日々気になったこと、興味を持ったことを綴っています。

六道珍皇寺 「あの世への入り口」・六波羅蜜寺

五条大橋その一つ北にある松原端。

松原通が通っている。

この通りがかつての「五条大路」。

この道をずっと東に行くと「清水寺」に至る。

かつての「清水寺の参詣道」とされていた。

それが、秀吉の京都改造で、「五条大路」が今の松原通になった。

豊臣秀吉方広寺大仏を建立したことによって、

「六条坊門小路」を方広寺の参詣道と定められ、

五条大橋がここにかけ替えられたことによって、この通りを「五條大路」とするこになったようだ。

それまでの「五条大路」は、松並木が続いていいたことから「松原通」なった。

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今の京都の町は、秀吉の都市計画がベースになっている。

当初の平安京は、朱雀大路を中心に東西に右京と左京があった。

右京は人が住むには合わない環境だったので、次第にすたれ、

自然と左京に人が集まるようになった。

平安から鎌倉、室町と時代が減るにつれ、京都の町は戦乱に巻き込まれ、街は荒廃。

天下をとった秀吉は、荒れた京都の街の再興のために、

御土居」で京都の町の範囲を決め、

新たに道路を作ったり、

広い道路狭くしたりして、京都の町を大きく変えた。

それまでは京都の町割りは、一辺が200mの正方形で、中央が空き地なっていたようだ。

今の京家の「ウナギの寝床」と言われる家並みはこのころからだそうだ。

秀吉の頃からといっても、もう500年ほど前の話になる。

 

昔々、鴨川から東は、京都の人にとっては、不気味なところだったようだ。

そのころは、人がなくなると今のように火葬や埋葬ができたのは貴族や上流階級だけだった。

庶民は風葬せざるを得なかった。

東山に風葬地がある「鳥辺野」。清水寺から南の阿弥陀ケ峰のあたりだった。

遠くに持っていけない人は、鴨川に。

鴨川から東は亡くなった人の亡骸が風にさらされていた。

鴨川から清水寺の間に

六道の辻」という「鳥辺野」に通じる冥土の入り口とされているところがあった。

この風葬の習慣が、疫病などの原因にもなり、また人が亡くなる悪循環だっただろう。

 

六道の辻]

松原通」を鴨川沿いの「川端通」から清水寺のに向けて歩くいていくと、

道幅は徐々に狭くなり、車が行違えるのやっとのほどの広さになる。

六波羅蜜寺へ向かう角に、「六道の辻」の碑があった。

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六道の辻の角を曲がるとすぐ「六波羅蜜寺

今風のお寺だった。

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松原通りに戻りさらに進むと、

通りの雰囲気も観光地のにおいが消え、生活のにおいがしてくる。

通りの両側には、魚屋、八百屋などの店がならぶようになる。

地「ハッピー六原」という市場あった。

生活感のある通りだ。

さらに進むと「六道珍皇寺」があった。

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 ここかつて「六道の辻」とよばれ、近くを三途の川が流れていたという。

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境内内には「あの世の入り口 六道の辻」とかかれた提灯があった。

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「六道」がなぜなぜあの世の入り口なのか。

「鳥辺野」は風葬地だったので、髑髏(どくろ)がたくさんあったのだろう。

その「髑髏(どくろ)」が転訛して「ろくど」なった。

その「ろくどう」に「六道」があてられという説が有力。

「六道」は仏教の死後住む世界「地獄・餓鬼・修羅・畜生・人・天」」の冥界こと。

 

今回は、「碁盤目には謎がいっぱい!ほんとうは怖い京都の地名散歩京都しあわせ倶楽部」という本を読んで、「六道の辻」のあたりを見に行った。

京都の観光本より、京都散歩によほど参考になると思う。 

 

 芥川龍之介の「羅生門」を教科書で読んだときに感じた、荒涼した印象がかつての京都の周りにあった。

人の命は今では国をうごかすことがあった。

人の命はとても重い。

この時代は、庶民は生きるので精一杯で、亡くなった人に思いを寄せる余裕すらあたえられなかった時代。

亡くなった人を丁重に葬送する現在では考えられない時代があった。

 

 【参考図書